迷う心を映すもの 1/2




「一体どうなってるんだっ……!」

苛立ち混じりに呟いてイギリスは下唇をギリッと噛んだ。
目の前にこじんまりと建つ、手入れの行き届いた庭を持つ民家には
クレマチスとバラのアーチがあり、美しく花をつけていたが、
今のイギリスにはそれを愛でる余裕はなかった。
そして、もう何度目になるか解らないその民家を過ぎ、左へと曲がる。
このまま真っ直ぐ進んでさらに三つ目の角を右に曲がって、ふたつ目の角を左へ。
そしてそのまま突き当たりまで進んで……

さっきから何度も繰り返し確かめて足を進めているのに、ちっとも目的地へ辿り着けない。
住み慣れた自分の街のはずなのに、いつの間にか霧に飲まれるように道を見失っている。

「……なんなんだよ……」

歩き続けるイギリスの額に汗が浮かぶ。
ゆるりと流れ落ちるその雫が、焦りを感じているイギリスにはひどく煩わしかった。
ハンカチを出すのももどかしく、手の甲でそれを拭う。
濡れた感触が不快で振り払うように手を振った。

今日は久々にアメリカに会うのだ。

お互いに忙しい時期だということは分かっていたのでしばらくは連絡をしなかった。
そして、忙しい時期が過ぎても連絡をしない日が長かったので
どう切り出せば良いか解らなくなって連絡を取ることが出来なくなった。
そこで別に自分から連絡をしなくてもアメリカからの連絡を待てばいいことに気付き、
今か今かと連絡を待った。
ノロマなアメリカを罵りながら、その言葉のバリエーションも尽き果てかけた時、
ようやく脳天気な声で電話がかかって来た。

内容はよく覚えていない。

メモを取ることすら忘れてしまって、
必死に待ち合わせの場所と時間を頭の中で繰り返していたからだ。

『君、俺の話をちゃんと聞いているのかい?』

そう何度か訊ねられたが曖昧な返事をしていたように思う。
だって仕方がなかったんだ。
心臓が余計な音ばかり立てていてうるさかったんだ。

電話を切ったあとも妙に浮ついた感じで落ち着かなくて、
そう、今朝も鏡をひとつ割ってしまって……
あの鏡、なんだっけ?
なんかやたら古くていわくありげなものだったような気がする……

そうだ、妖精。
あいつらに訊けば良い。
ついでに道も訊けば良いんじゃないか!
なんでもっと早くに気がつかなかったのだろう?
焦る心に光が射したように少し晴れやかな気分になって口を開いた。

「おい、お前達!」

親しみをこめて呼びかけてみたけれども、返事も気配もない。
おかしい。
いつもなら、呼ばなくても俺が困っているときは現れてくれる。
それ以外のときだって勿論そうだ。
あいつらは俺のよき理解者で一番の友達だからだ。

ふと、脳裏に今朝割ってしまった鏡の破片がちらついた。

床の上で無惨に砕けた鏡の、その隙間から立ち上る黒い靄。
禍々しい気配を放つそれを、俺は確かに見たはずなのに忘れていた。
どうして忘れることが出来たのだろう?

そう、あの鏡は望む幸せを映し出す鏡。
見た者の不安を吸い取り、代わりに一瞬の夢のような時間を提供してくれる。
それが嬉しくて一時期は毎日のように使った。
鏡が見せる幻の中のアイツは酷いことなんて言わなくて、
昔のように穏やかで温かな時間が流れていた。
ひどく、心地良かった。
でも、夢と現実との差がどんどんと開いて行くようで
恐ろしくなってしまっていつしか見るのをやめた。

甘い夢を見たあとの現実ほど辛いものはない。

現実に耐えきれなくなりそうで見ることをやめたのだ。
いや、夢を見ることすら怖くなってしまったのかもしれない……


あの時、鏡が割れてしまったことで、
きっと吸い込んでいたものが溢れ出したのだ。

うっかり見えてしまうのが嫌で、随分と長い間放置していて
拭いてもやらなかったから怒っているのかもしれない。
鏡のことなんか忘れて、浮かれていて割ったから恨んでいるかもしれない。

とにかく俺は、呪われてしまったのだ。

妖精達の姿を見なくなったのも、思えばそれ以降だ。
あの鏡の力は強いから、妖精達はそれに負けて近寄れないのだろう。

だったら、自分で何とかしなくてはいけない。
けれど……

またあのクレマチスとバラのアーチのある家の前の道へ出てしまった。

「どうすりゃいいんだよ……」

何をしたら呪いが解けるのか、
どうすればここから出られるのかが分からなかった。
このままずっと彷徨い続けて、アメリカにも会えないのだろうか?
そんなのは困る。堪えられない。

待ち合わせの時間からすでに一時間以上過ぎている。
落ち着かなくて早く家を出てしまったから二時間は彷徨っているかもしれない。
足が痛くて、髪も乱れて、心もグチャグチャだ。
空いた手が不安でぎゅっとジャケットの裾を掴んで涙が出そうになるのを堪えた。

割れた鏡はそのままにして来てしまった。
あれをちゃんと直したら呪いは解けてくれるのだろうか?

アメリカを待たせているのが気になってしょうがないけれども、
辿り着けないのでは仕方がない。
一度家に引き返して鏡を修理して謝ろう。
それでもダメだったら、鏡に直接呪いを解く方法を訊ねてみよう。

そう決めると、イギリスはくるりと踵を返して走り出した。

早く、早く。

走り出さないと、足許に絡み付いている不安の塊に
がぶりと頭から飲み込まれてしまいそうだった。
もとは自分から溢れ出したものなのに、今それに捕まってしまうのは怖かった。
やっと、やっと少し前向きに幸せなのかもしれないと思えるようになって来たのに。

「……はぁ、はあっ…っ」

息を切らしながら見慣れた街並を走り去る。
あともう少し。
あの蔦の絡まる塀を曲がれば、家が見えてくる!

……え?

角に一歩足を踏み入れた瞬間に、ぐにゃりと足許が揺らぎ、
空気が歪む気配を感じた。
慌ててもう一方の足を踏み出してバランスをとった時には
目の前に見えるはずの景色は消え去っていた。

「……嘘だろ」

また、あのアーチのある家の前へと立っていた。
イギリスの絶望的な気分とは裏腹に、
白とピンクのバラと共にアーチを彩る紫と白のクレマチスは、
嫌味なくらいに優美に咲き誇っていた。

「……っ」

不安と絶望が喉元に迫り上がり、声にならない悲鳴を上げる。
さっきは我慢出来たけれどももう無理だ。
イギリスの瞳からはらはらと涙がこぼれ落ちた。
一度流れ出した涙はそれまでの不安を物語るように、
次から次へと溢れ出し、イギリスの頬を濡らした。

「うっ……ひっ…く……」

立ち尽くし、込み上げる衝動のままに涙をこぼした。
もうどうしたら良いか解らなくて、泣くことしか出来なかった。
涙は絶えることなく、あとからあとから零れ落ちてくる。
イギリスの心を映し出すように、薄曇りだった空がどんどんと陰って行く。
濡れた頬もそのままに、引き寄せられるように陰る空を見上げた。

このまま雨が降って、呪いも、想いも、何もかも流してくれればいいのに。
そうすれば、きっと楽になれるのに……

投げやりなその願いを聞き入れるように、ポツリ、ポツリと空から雫が落ちて来た。

イギリスは空に顔を向けたまま、目を閉じてそれを受けた。
頬を濡らすその雫に、酷く安堵した。


「おい!イギリス!」

静かに流されてしまおうとしたイギリスを呼び止める声。
イギリスはハッと目を開き、声のする方向へ視線を向けた。

「……アメリカ?」

「全く君は何をやっているんだい?
 時間に正確な君が30分待っても現れないから探しに来てやったぞ」
「……」

イギリスの背後からアメリカが靴音を響かせながらスタスタと一直線にやってくる。
自分に近付いてくるアメリカを、イギリスは呆然と見つめた。
『どうして……』渇いたように引き攣れた喉から言葉にならない声で問いかける。
アメリカはそんなイギリスの様子に眉を顰めた。

「何だい、酷い顔じゃあないか。心配して迎えに来てやったんだ。
 雨が本降りになって君の顔みたいにぐちょぐちょになる前に家に行くぞ」

ほら!と差し出された手と、アメリカの顔をイギリスはぼんやりと見つめた。

これは本当にアメリカなんだろうか?
あの鏡が最後に見せる質の悪い夢なんじゃないだろうか?
あんなに会いたいと願っていたのに、会いに行こうとしていたのに全然叶わなくて、
いきなり向こうから現れるなんておかしいじゃないか。
この手を取ったら今度はアメリカが消えてしまうんじゃないだろうか?
疑惑が先行して怖くてアメリカの手がとれない。

「……何突っ立ってんだい、早くしなよ」
指先を震わせて戸惑うように立ち止まるイギリスの姿に焦れて、
アメリカは少し苛立ったように言うと、その手を掴み、引き寄せた。
そして、手にしていたジャケットをイギリスの頭を覆うように被せた。
アメリカの手が伸ばされて、縮こまろうとするイギリスの手が
再びその力強い手の平とぬくもりに包まれる。
繋がった手から伝わる鼓動と温度に不安が徐々に溶かされて行く。

「……アメリカ」
「遅刻の言い訳なら後にしてくれよ。今はこれ以上君を濡らしたく無いんだ」
 
繋いだ手とは違う、もう一方の手の袖で、やや強引に頬を拭われる。
目尻に残った涙は唇に吸い取られた。
甘い感触に、やっぱり夢を見ているのかもしれないと思った。




 

迷子のにゃんこのもとへヒーロー登場!  
はーい、後半に続きますよう〜  

2009.10.05 千穂   

 

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